柳宗悦『民藝四十年』

民藝四十年 (岩波文庫 青 169-1)
柳 宗悦
岩波書店
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内容

 本書は、民藝運動を提唱し日本民藝館を設立した柳宗悦
(1989-1961)による主要な論文と随筆19本を時系列に沿って収録し
たものである。この本に収められた著述は、柳の著作のうちのごく一
部にすぎないが、民藝運動の理念や思想について概観することができ
る。
 「民藝」は、民衆的工藝を意味している。柳が1925(大正14)年
に、河井寛次郎浜田庄司とともに作った新語である。民藝品とは、
一般の民衆が日常使っている安価でごく平凡で当たり前の用器のこと
を指す。柳は、これら無名の職人の手によってつくられた雑器に美を
見出した。民藝は貴族的な工藝美術とは相対するもので、それまで
「下手物(げてもの)」などと呼ばれ、注視されることがなかったも
のである。
 柳が関心を向けた民衆の創造物は、いわゆる器だけに限らない。仏
像、建造物をはじめ、民画、建築、染物、さらに無形の舞踊、和歌、
言葉まで多岐にわたっている。これらは、いずれも名を成した個人作
家によるものではなく、一般の民によるものである。
 実は雑器の美を認めたのは、柳が初めてではない。柳は、茶の湯
名器とされる「大名物(おおめいぶつ)」の井戸茶碗が、平凡な朝鮮
の工人の作だったことを指摘し、過去の茶人の目利きを称えている。
しかし、形骸化してしまった今の茶の湯の世界は批判している。
 柳は、工藝は自然な無心の美の産物であり、集団の協力のもとにつ
くられた美であると解説する。しかし今の時代の私たちは、すでに美
を知って後作り、個人的作家としてつくる。そのディレンマのなか
で、いかに新しい工藝を産むことができるのか。彼は、希望的解答と
して、作家の一群が結合して共同生活を営む工藝のギルドを提案して
いる。

感想

 柳の文章は、種々の美に接した感動にあふれていて、読んでいると
彼の想いの深さが伝わってくる。情熱的な文章の連続で、すべての文
の最後に感嘆符がついていても、まったくおかしくないほどだ。
 木喰上人作の仏像を発見し、全国の木喰仏探索の行脚を記した「木
喰上人発見の縁起」では、木喰仏発見とその探索の喜びに満ちてい
る。また、「琉球の富」では、さまざまな美にあふれている沖縄を大
いに賛美している。
 しかし、柳はただ感情にまかせて書いているわけではない。彼は、
民間の手仕事を低く見る人々の価値の転換を目指しているのだ。さら
に、雑誌『工藝』の発行や日本民藝館の設立を企画し、日常の美を忘
れ機械生産に流れる社会を変えようとしている強い意志を感じた。
 本書冒頭に収められた「朝鮮の友に贈る書」では、大正8年に勃発
した朝鮮の独立運動を鎮圧した日本政府の朝鮮政策を強烈に批判し、
続く「失われんとする一朝鮮建築のために」では、朝鮮の景福宮の正
門・光化門の取毀し計画に反対している。この文を発表した反響に
よって、光化門は取毀しから救われた。柳の切実な訴えに、多くの読
者が引き込まれた証左だろう。
 「琉球の富」では、沖縄地方の独自の風俗と伝統だけでなく、沖縄
の方言も称えている。このことが、当時の沖縄県の標準語奨励の運動
と対抗し、柳が「方言論争」の当事者として勾留され訊問されたこと
もあるという。
 このように、彼の文章は美的であるとともに、現実の社会や運動と
結び付いているところが興味深い。だからといって、柳がはげしい運
動の指導者だったとは思えない。彼の文章からは、運動家の野心より
も、美を愛好する人間の誠実さが感じられたからだ。柳は、権威や作
者や作風など、いっさいの〈めがね〉を通さず、ものの美を直視して
いる。このような純粋な鑑賞眼をつねに持ち続けられる人はそう多く
はない。
 柳は、民藝は普段使いに耐えられる丈夫さをそなえているという。
それは、「健康な」美である。一方、美術は脆弱で病的である。作家
性を出すこと、美を意識してつくりあげることは造作であり自然の美
ではない。柳から見れば、コンセプトありきの現代美術は大病を患っ
ているようなものだろう。
 以下、とくに印象に残った論考を三つあげる。
 一つ目。「工藝の協団に関する一提案」では、今の私たちがいかに
手工芸の生産を維持できるかについて考察している。柳は、たんに工
芸を使う、観るだけではなく、つくり手が抱える問題も視野に入れ
て、工藝全体の支援を考えていたことがわかる。
 二つ目。「美の法門」は、本書のなかで異彩を放っている。はじめ
に仏教の経典がひかれていて唐突な印象を与える。これは、念仏宗
帰依した柳の、他力道としての美の思想をあらわしたものだ。大無量
寿経第四の無有好醜の願は、仏の国には美醜の別が存在しないことを
告げている。この世の美醜の別は迷いだという。美醜がないとは不思
議で、民藝の美を語っている他の頁と矛盾しているようだが、民藝運
動を宗教運動として考えていた柳にとってはつながっているのだろ
う。仏教をよく知らない私には難解で正しく理解できていないが、心
に触れる言葉にあふれていた。
 三つ目。「改めて民藝について」では、民藝をつくった柳本人が、
世間の民藝の誤解を憂いている。民藝のブームは、民芸展や民芸屋な
ど人工的な民藝品を生み出す結果をもたらした。柳は、「民藝」とい
う言葉にとらわれ、民藝趣味に陥ることの危惧を嘆いている。彼は、
みずから提唱した概念が運動としてひろがるのを見届けつつも、その
ものが権威と化すことを自ら戒めている。

現在の民藝

 民藝の発見に、柳の存在は欠くことができない。しかし、20世紀初
頭の商業主義と工場での機械生産、西洋文化の輸入と流行といった時
代背景を見逃すこともできないだろう。それまで当たり前すぎて感じ
ることのなかった要素が、時代の変化とともに忘れ去られたり、逆に
意識にのぼってくることがある。そのひとつが民藝的なる要素だった
のだ。
 残念ながら現代では、もはや無心でつくられた民藝は存在しない。
あるのは、どんなに素朴であっても「民藝」的な模倣品である。各地
の陶芸の村でも状況は変わらない。私は瀬戸など窯元の集落を何度か
訪ねたことがあるが、無銘の品だけをつくる窯はほとんどなく、どの
窯も作家性で勝負している。現在は、作家の名を高め、意匠を競って
器を売る時代だ。
 いま日常品で安価に手に入り、無名の人々がつくっているものとし
て思い浮かぶものは100円ショップの商品だ。これらの品物と民藝の
違いはどこか。それは生産の過程にある。機械生産であることもさる
ことながら、最も大きな違いは、柳が指摘した協団と信仰がないとこ
ろだろう。そこには「健康な」美は存在していない。
 では現代における民藝的なる要素はなんだろうか。かなり乱暴かも
しれないが、私はナガオカケンメイによるロングライフデザインのコ
ンセプトや60年代家具の復刻活動に共通点を感じた。実用性や耐久性
に主眼をおいて量産された往時の事務家具は現代版の「下手物」とい
えるが、次々とモデルチェンジを繰り返す現代の産業デザインのなか
で、それらの安定したデザイン性が再評価されているからだ。

美を語ること

 柳に限らず、人はなぜ美を語るのか。美に打たれ感動した人は、そ
れを他者に伝えずにはいられない。美は理論ではなく直観的な体験で
あり、容易には語りえないのに、言語化の誘惑にかられてしまう。い
くら言葉を重ねても伝えきることはできないものだ。
 柳の言葉は伝わっているだろうか。彼は、美をさまざまな角度から
語っている。作り手の視点、使い勝手、器のゆがみや釉薬のかかり具
合など、ときに詳細に述べている。これらの言葉が、すべての人に伝
わるとは思わないが、民藝運動というムーブメントにつながったから
には、やはり多くの人の共感を呼び起こしたのだろう。
 私は、本書を読んで、実物を観てみないことにはその魅力はわから
ないと感じたが、実物観賞に誘う魅力はあった。ちなみに読後は実際
日本民藝館を訪ねた。
 最後に柳の文章は、これまで読んだことのあるどの作品評論とも一
線を画していた。一般的な評論文は、理論や技法、技巧、権威などを
駆使して語るが、柳はそのような修辞を慎重に避けているように思わ
れる。彼は、それぞれの民藝品に関する事情に相当精通しているはず
だが、その知識をひけらかしたりしない。彼はできるだけ平易な言葉
を丁寧に重ねて、品の良さを語り伝えようとしている。柳のこうした
誠実な態度に、私はもっとも感動した。